旧本多忠次邸の復元について
更新日:2010/07/20
『本多忠次氏とは・・・』
徳川家康の家臣であり、四天王と称された本多忠勝の子孫にあたるのが本多忠次氏になります。本多家は、江戸時代後期の岡崎藩主であり、忠次氏は最後の岡崎藩主となった本多忠直の孫にもあたります。
本多忠次氏は、1896(明治29)年に、三河岡崎の本多家本多忠敬の次男として生まれ、学習院、東京帝大文学部を経ています。
『本多忠次邸の取り壊し計画・・・』
世田谷区野沢に建つ本多忠次邸の敷地の売却に伴う取り壊し計画を聞いたのは、1999年の暮れになります。世田谷教育委員会にて、世田谷区の地域史における本多邸の重要性から緊急調査の実施を決定しました。調査をすればするほど、本多邸の歴史的価値が明らかとなり、取り壊し以外の道の模索が一層積極的に展開されました。そして、本多氏のゆかりの地である愛知県の岡崎市に建物の寄贈を申し出たところ、当時の市長の快諾を得て、愛知県の岡崎の地に、解体し部材を運搬し、事業が無事終了しました。そして今日に至り、岡崎市欠町地内にて、旧本多邸の復元工事が開始されました。
( 近代住宅 70年の記憶 昭和洋館物語 ~世田谷 本多邸 夢の郊外住宅展~ 本多邸の再生を考える会 内田 青蔵 )
旧本多忠次邸について
1 旧所有者
本多忠次氏・・・徳川家康の家臣で四天王と称された本多忠勝の子孫
本多家は江戸時代後期の岡崎藩主で、忠次氏は最後の岡崎藩主となった本多忠直の孫
2 復元建物の概要
復 元 場 所 | 岡崎市欠町足延 東公園内 |
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規 模 | 敷地面積(坪) 約690坪 |
床面積(坪) 1階96坪 2階67坪 延床面積163坪 内復元部分146坪 増設部分 17坪 |
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形 式 | 木造2階建て(一部鉄骨) |
様 式 | スパニッシュ様式を基調 |
復元完了日 | 平成24年1月31日 |
設計・監修 | 伝統技法研究会(東京都) |
施 工 |
丸ヨ建設工事共同企業体 |
備 考 | 旧所在地 東京都世田谷区野沢3-30-3 当初敷地面積 約2,000坪 当初建築年 昭和6~7(1931~1932)年 設計・施工 白鳳社建築工務所 (基本設計は本多忠次氏) |