アーカイブ2010年7月

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2000年に、東京から岡崎の地に、解体された本多邸の建物の各部材が運び込まれました。

岡崎市現業事務所の1階の倉庫、2階の整備室、

そして、倉庫の外部にブルーシートを被せて、本多邸の建物の部材が全て保管されていました。

ここに10年間もの時を経て、シャッターが開けられました。

本多邸の建物の構造材やフローリング、タイルなど、様々な材料が、埃をかぶっていました。

 

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『本多邸(現在の世田谷区野沢)の完成に至るまで・・・』
本多忠次氏は、1930(昭和5)年の当時35歳に住まいを構える準備として、現在の世田谷区野沢の東急電鉄沿線にある約2000坪の土地を購入します。1927(昭和2)年から購入した土地に接して環状七号線の計画も進行しており、この交通の便も考慮されていました。いずれにしても、1930(昭和5)年に土地を購入し、本多邸は1932(昭和7)に竣工しました。

本多氏は、経歴から明らかに建築や庭園の専門的な教育を受けていませんが、建築や庭園に強い興味を持ち、自らスケッチや建築図面を引くこともあり、建築費の研究や住宅関連の書籍はもちろん、和雑誌や洋雑誌を買い集めていたことから、有閑階級の普請道楽をはるかに超えた建築へのこだわりをもった人物であったことが判ります。また、住宅地巡りをしながら、気に入った住宅があると、設計者や施工者調べや、当時の著名な建築家の作品を見て廻るなど時間をかけて建物の検討をしていました。また、設計だけでなく施工も任せられるとして、本多邸の設計・施工は、白鳳社建築工務所が請負いました。


 

『本多邸(現在の世田谷区野沢)の顛末・・・』
本多邸は1932(昭和7)年に完成するものの、庭先のプールや敷地周辺工事は翌1933(昭和8)年まで続きました。しかし、戦後の1945(昭和20)年7月から翌年3月までは政府の施設として使用され、その後の1946(昭和21)年5月から1952(昭和27)年7月まではGHQに接収されました。接収に際して、本多氏は「建物に手を加えることはできるだけ避けてほしい」という要望書をGHQに送り、子供のいないマッカーサーの顧問弁護士であったカーペンター夫妻が気をかけながら住んだといいます。本多氏は、接収の間は、敷地の一角に小さな住まいを構え、返還後は再び本宅に住んだといいます。その間、敷地の一部は1964(昭和39)年の東京オリンピックに係る道路拡張工事で失われ、また、1975(昭和50)年頃、環状7号線沿線側の土地を一部、手放したといいます。このような過程で、正門が環状7号線側から現在の東側に移行しています。しかしながら、このような部分的変化はあったものの、住まい周辺の様子は、御当主の本多氏が亡くなる1999(平成11)年まで、ほとんど変化がなかったのです。

 

( 近代住宅 70年の記憶 昭和洋館物語 ~世田谷 本多邸 夢の郊外住宅展~ 本多邸の再生を考える会 内田 青蔵 )

 

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『建築様式と平面形式の特徴』
建築様式は、赤い瓦や平坦な白い壁、そして、正面の窓の装飾的な鋳鉄製の格子といった特徴から、スパニッシュ様式に属するといえます。この様式は、大正後期頃から盛んにわが国に紹介されたアメリカ住宅によく見られる様式であり、わが国でも昭和初期の邸宅建築に好んで用いられました。また、車寄をみると、扁平のアーチが見られ、しかも、そのアーチ中央部の先端が尖っています。これはイギリスの中世に好まれたチューダー・アーチです。このことから、本多邸は、スパニッシュ様式を基調に、一部チューダー様式を加味しているといえます。


外観の見せ場の南立面は、魅力的な構成とするために、壁から外に張り出した出窓や半円状の突出部、さらには、半円アーチを三つ連続させるなど、凹凸の変化を付けています。開口部の処理が単調ではありますが、全体としては端正な構成に仕上がっています。また、その庭先にはT字形の小さなプールがあります。南正面右の半円状の突出部の上にある三角屋根の妻面の最上部とプールに水を吐き出す壁泉には、野獣面の装飾が付いています。建物は陸の王様の獅子、プールは海の王様のシャチを現わしているといいます。その野獣面がお互いに向き合うことで、建物と庭に一種の緊張感が感じられる、極めて個性的な構成を見ることができます。


平面形式は、建物の中央に中廊下を配する中廊下型の住宅といえます。具体的には、西端に車寄・玄関があり、玄関土間から二階へ通じるコの字型の大階段を配したホールが続き、階段裏には内玄関が置かれています。このホールから突き当たりの東端の内玄関まで4尺5寸幅の廊下が一直線に延びています。この中廊下型の平面形式の特徴は、この東西に走る中廊下で建物が南と北に二分されることです。そして、一般には、日照等の住環境のよい南側に接客の場や、家族の生活の場である居室が設けられ、北側には使用人の働く場である台所や使用人の詰め所、さらには、便所や浴室といった生活に必要な付帯部分が設けられることになります。本多邸でも同様に、南側に「応接室」「団欒室」「食堂」といった部屋が配され、北には「使者之間」「台所」「第一女中室」といった部屋が配されています。このような部屋配置は二階でも変わりません。また、この中廊下を見ていくと、大階段裏の「食堂」と「第一女中室」を挟んだところに扉が設けられ、中廊下を東と西で二分できるように工夫されています。この点は二階でも確認され、「客間」の前の広間と便所の間の扉で廊下が東西に二分されています。この扉で区分された東と西の各部屋を見ていくと、玄関のある西側は接客に関連する部屋、東側は家族の生活の部屋というように巧く分離されています。言い換えれば、本多邸は、南と北にそれぞれ家族の生活のゾーンと、使用人の場のゾーンを配すると共に、西側には接客の場という表のゾーン、東側には生活の場という裏のゾーンという領域を二重に重ねた平面構成といえます。このような二重のゾーンの組み合わせは、接客を重視し、かつ、使用人の存在が当たり前の住まいならではの考え方といえ、その意味では、まさしく、戦前期の平面形式を取った住まいといえます。

 

 

『もう1つの特徴としてのインテリア』
この住宅のもう1つの特徴は、戦前期の家具や照明器具がそのまま残されていることです。すなわち、家具や照明器具といったインテリアに関しても、本多氏の関心は強く、自ら家具や照明器具といったものを選定し、「寝室」に置かれている家紋の入ったベッドは、デザインそのものも手がけたといいます。室内全般を見渡せば、「団欒室」や「食堂」、そして、「書斎」は車寄に見られたチューダー風の共通した装飾による重厚な家具が用いられていますが、二階「書斎」横の「茶室」は、色合いは伝統的な濃い朱色の椅子と黒色のテーブルながら、そのデザインは椅子の足に金属を用いたアール・デコ調の極めてモダンな家具となっています。また、「寝室」も壁紙は銀色を主体とし、家具も面構成を強調したアール・デコ調のものとなっています。このアール・デコは別名1925年様式ともいわれ、わが国では昭和初期に流行しました。その意味で、これらのアール・デコのデザインは、この建物の造られた時代を代弁しているといえます。

 

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『本多忠次氏とは・・・』
徳川家康の家臣であり、四天王と称された本多忠勝の子孫にあたるのが本多忠次氏になります。本多家は、江戸時代後期の岡崎藩主であり、忠次氏は最後の岡崎藩主となった本多忠直の孫にもあたります。
本多忠次氏は、1896(明治29)年に、三河岡崎の本多家本多忠敬の次男として生まれ、学習院、東京帝大文学部を経ています。

『本多忠次邸の取り壊し計画・・・』
世田谷区野沢に建つ本多忠次邸の敷地の売却に伴う取り壊し計画を聞いたのは、1999年の暮れになります。世田谷教育委員会にて、世田谷区の地域史における本多邸の重要性から緊急調査の実施を決定しました。調査をすればするほど、本多邸の歴史的価値が明らかとなり、取り壊し以外の道の模索が一層積極的に展開されました。そして、本多氏のゆかりの地である愛知県の岡崎市に建物の寄贈を申し出たところ、当時の市長の快諾を得て、愛知県の岡崎の地に、解体し部材を運搬し、事業が無事終了しました。そして今日に至り、岡崎市欠町地内にて、旧本多邸の復元工事が開始されました。

( 近代住宅 70年の記憶 昭和洋館物語 ~世田谷 本多邸 夢の郊外住宅展~ 本多邸の再生を考える会 内田 青蔵 )

 

旧本多忠次邸について 

 1 旧所有者

本多忠次氏・・・徳川家康の家臣で四天王と称された本多忠勝の子孫
本多家は江戸時代後期の岡崎藩主で、忠次氏は最後の岡崎藩主となった本多忠直の孫
 

2 復元建物の概要

復 元 場 所 岡崎市欠町足延 東公園内
規   模 敷地面積(坪) 約690坪
床面積(坪)  1階96坪 2階67坪 延床面積163坪 
        内復元部分146坪 増設部分 17坪
形   式 木造2階建て(一部鉄骨)
様   式 スパニッシュ様式を基調
復元完了日 平成24年1月31日
設計・監修 伝統技法研究会(東京都)
施   工

丸ヨ建設工事共同企業体

備   考 旧所在地    東京都世田谷区野沢3-30-3
当初敷地面積    約2,000坪
当初建築年     昭和6~7(1931~1932)年
設計・施工   白鳳社建築工務所 (基本設計は本多忠次氏)

 

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