夢を実現した昭和の洋館・本多忠次邸
更新日:2010/07/20
『本多邸(現在の世田谷区野沢)の完成に至るまで・・・』
本多忠次氏は、1930(昭和5)年の当時35歳に住まいを構える準備として、現在の世田谷区野沢の東急電鉄沿線にある約2000坪の土地を購入します。1927(昭和2)年から購入した土地に接して環状七号線の計画も進行しており、この交通の便も考慮されていました。いずれにしても、1930(昭和5)年に土地を購入し、本多邸は1932(昭和7)に竣工しました。
本多氏は、経歴から明らかに建築や庭園の専門的な教育を受けていませんが、建築や庭園に強い興味を持ち、自らスケッチや建築図面を引くこともあり、建築費の研究や住宅関連の書籍はもちろん、和雑誌や洋雑誌を買い集めていたことから、有閑階級の普請道楽をはるかに超えた建築へのこだわりをもった人物であったことが判ります。また、住宅地巡りをしながら、気に入った住宅があると、設計者や施工者調べや、当時の著名な建築家の作品を見て廻るなど時間をかけて建物の検討をしていました。また、設計だけでなく施工も任せられるとして、本多邸の設計・施工は、白鳳社建築工務所が請負いました。
『本多邸(現在の世田谷区野沢)の顛末・・・』
本多邸は1932(昭和7)年に完成するものの、庭先のプールや敷地周辺工事は翌1933(昭和8)年まで続きました。しかし、戦後の1945(昭和20)年7月から翌年3月までは政府の施設として使用され、その後の1946(昭和21)年5月から1952(昭和27)年7月まではGHQに接収されました。接収に際して、本多氏は「建物に手を加えることはできるだけ避けてほしい」という要望書をGHQに送り、子供のいないマッカーサーの顧問弁護士であったカーペンター夫妻が気をかけながら住んだといいます。本多氏は、接収の間は、敷地の一角に小さな住まいを構え、返還後は再び本宅に住んだといいます。その間、敷地の一部は1964(昭和39)年の東京オリンピックに係る道路拡張工事で失われ、また、1975(昭和50)年頃、環状7号線沿線側の土地を一部、手放したといいます。このような過程で、正門が環状7号線側から現在の東側に移行しています。しかしながら、このような部分的変化はあったものの、住まい周辺の様子は、御当主の本多氏が亡くなる1999(平成11)年まで、ほとんど変化がなかったのです。
( 近代住宅 70年の記憶 昭和洋館物語 ~世田谷 本多邸 夢の郊外住宅展~ 本多邸の再生を考える会 内田 青蔵 )